さいとうひろおブログ

夢と希望と借金しかない。千葉県の実家から沖縄目指して歩いてます。自分探しではなく、探した結果見つかった答えがこれだった。

【34日目 番外】法谷寺奥の院『タタリ谷 常厳寺』

『タタリ谷 常厳寺』  


名前からしてヤバい。


眉山の北側の麓はこんな道です


墓だらけ


上記2枚の写真の間に寺の入口はあります







こんなに墓が雑然と敷き詰められている場所は見たことない。 


林の奥を見渡せばもっとある。


ほとんどは欠けたり倒れていたり苔むしている。


一言で「異様」だ。
 

スタジオジブリ作品『天空の城ラピュタ』のロボット兵の墓みたいな雰囲気。


寺の名前がわかるものが一切ない。


山門もお堂も庵もない。


縁起が書かれた看板もないから由来もわからない。


ネットで調べてわかることも少ないがそのどれもが口伝(くでん)や憶測であり確たる証拠がない。


奥へ進むと石垣が




一段上がった所に異彩を放つお墓がある。


阿闍梨(あじゃり)堅雄」
阿闍梨とは、正しく諸戒律を守り、弟子たちの規範となり、法を教授する師匠や僧侶のことである(Wikipedia引用)。




この全面の紋様はなんだろう?


まあとにかく偉い坊さんであろう。
しかし法谷寺と常厳寺にとってこの人物のよい話は検索しても出てこない。


近くにある石碑


こちらも同じく。しかし奇妙な線が走っている





よく崩れないで残ってるな








中央にかなり大きい塔が建つ。




『大隨求菩薩(だいずいくぼさつ)』






墓の後ろには曼陀羅(まんだら)の石碑。








一体この寺は何なのだ?
そもそもここは「寺」なのか?
寺らしき建築や跡がみられない。


そう、ここは『聖徳太子の御廟(ごびょう:墓)』という説があるのだ。


その墓を前述の阿闍梨堅雄が掘り返し隨求塔を建てたと言われている。


また、この阿闍梨は法谷寺にあった観音像二体を持ち去り奈良の法隆寺に移したと言われている。


現在この二体は国宝に指定されているが、これらが元々法隆寺にあったものとは言い難い事実がある。


この観音像は1884年アメリカ人の東洋美術史家のアーネスト・フランシスコ・フェノロサ岡倉天心の調査によって寺の奥から引き出されたものなのだ。


観音像はお堂に安置されていたわけではなく、布でぐるぐる巻きにされて奥にしまわれておりとても寺宝の扱いとは思えない状態だった。


一体の観音像の名前は『救世(ぐぜ)観音』だが、これは法谷寺の『救世山 峯薬師』の観音様だから『救世観音』なのだ。


法谷寺は法隆寺よりも前に造られている。
観音像も聖徳太子の墓も「価値あるもの」は法谷寺と常厳寺にあった。


それをどんな思惑があってか欲しがる人間がいてもおかしくはない。


事実は藪の中だ。


しかし断片的に残された記録がその影を浮かび上がらせる。


聖徳太子はその生涯やそもそも存在したかについても謎の多い人物である。


後の人間の私利私欲のために


改変された歴史、隠された歴史などいくらでもあるだろう。


『歴史はバレなかった嘘でできている』


日本とは、日本人とは。











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